各作品レビュー:ア行

ああ播磨灘(さだやす圭)
かつてコミックモーニングで連載された、本格的相撲マンガ。
横綱に昇進した播磨灘はその初取り組みの場にて、双葉山の69連勝を越えてみせると公言し、その言葉通り次々と勝ち進んでいくが、その破天荒な言動とパフォーマンスに相撲界内外の多くの人々を巻き込みながら、相撲協会もまた反発しつつも振り回されていく。
結局格式にとらわれて真の強さを失いつつあった協会はひとまずの建て直しを余儀なくされる。まあこれは、強さに傾倒するあまり格式をはじめ相撲の真の魅力の何たるかを求めるべく建て直さんとする最近の協会とある程度似ているとは思うけれど。
やはり日本文化の一つである大相撲、今ある諸問題を根本的に解決して、今再びその勇姿を見せてほしいと思うことが日本人としての心情ではあるまいか。
ちなみに播磨灘の前身も連載された、そちらもある程度楽しめるかもしれない。

アシュラ(ジョージ秋山)
昭和30~40年代当時日本の高度成長期の陰でいわゆる反体制派を気取る人々がいて、秋山先生もそれをマンガで表現した作品の一つといったところ。
ストーリーは室町時代、飢餓にあえぐ民衆の中、極限の世界で生き抜いた子供の壮絶な物語である。赤ん坊のころに捨てられ、幼いころから生きるために殺生をも行っていた彼が、母親との確執や、後に師匠たる高僧の教えを受け、最後には仏門を極めんとする。
またストーリー背景上、かなりの残酷な表現からアニメ化は難しいということで、物議をかもしたものだったが。これも冷酷ながらアニメ化する度胸がなかったが、ようやく踏ん切りがついたといったところか。

美味しんぼ(雁屋哲・花咲アキラ)
かつては少年サンデーにおいて男組等で人気を博した雁屋哲氏が満を持して連載した本格的グルメマンガの先駆け的存在である。
東西新聞の記者として自堕落な日々を送る山岡士郎は、ある日新米記者の栗田ゆう子とともに究極のメニューの記事作りを命ぜられる。はじめ乗り気でなかったが、父である海原雄山への対抗心から取材に本腰を入れる。

その海原雄山について、希代の陶芸家にして美食家である彼は家庭を顧みないほど厳格に自らの美を追及し、息子である士郎の反発を買い、以来食の世界をめぐって対立することになる。
その雄山と山岡の料理勝負、端から見れば達人に対する若者の抵抗、しかし事情を知る人から見れば単なる親子ゲンカにしか見えなかったが、その根底はある程度自分の子としてふさわしく鍛えようとした父親としての威厳とわずかな情があって、それを認めがたい山岡の意地と、それを意地で応えた雄山のぶつかり合いとあいなったことだろう。加えて雄山も当初単なる敵役のつもりが時折見せる人格者然あるいは常識人然とした姿が見受けられるのもある程度ご都合主義ともいえるがこれに関しては後程。
やがてライバルの新聞社の企画に乗る形で『至高のメニュー』をひっさげ山岡の前にさらに立ちはだかる。それはひとえに自らの背を追うのみだった山岡を、ある意味対等の相手と認め始めたということだろう。
その後しばしば山岡の究極のメニューを打ち負かしつつお互いの高みを目指したことなのは述べるまでもないだろうけれど。
そのしのぎ合い高め合いに一つの区切りをつけたのはやはり、山岡のパートナー、栗田ゆう子だったのだ。はじめのうちどちらかといえば単なる足手まといの感が強かった彼女。次第に自らの感性と考えを固め、ついには雄山にも意見出来るようにもなる。後に山岡との関係も深まりついには結ばれ、間接的ながらも山岡と雄山の和解にいたる一因ともなった。
その後も親子しのぎ合いながらも食に対する造詣を深めていく、はずであった。

その屈曲点といえるのが、いわゆる東日本大震災が発生してから何かがおかしくなったようだ。最近では健康被害について露骨な表現が問題となっているけれど、これもはた目から見ればグルメ関係とかけ離れているかもしれない。
やはり社会に対する警鐘はいいけれど、これについても公正を期しなければ意味ないし、我を張り続けていざとなれば突っ張り続けられないというのもこれまた滑稽すぎる。
やはり冷徹な物言いになるけれど、グルメ漫画としての美味しんぼはもはや存在価値が薄くなってしまったといえるのではないか、と思わずにはいられない。